掃除 大魔王 暮らしを学ぶ #001

大魔王転生、新たなる敵

望郷の術、届かず

気づけば、見知らぬ路地に尻餅をついていた。

……ここは、どこだ?

意識が途切れる直前に見た配下たちの必死の形相だけが、妙に鮮明に焼きついている。
ならば、為すべきことは一つ。

「望郷の術……! これさえ使えば、元の世界に還れるはずだ……!」

震える手で印を組み、古の詠唱を紡ぐ。何度も、何度も。

…………。

何も、起こらぬ。

空気に満ちているはずの魔力の粒子が、この地にはひとかけらも感じられぬのだ。
そもそもこの世界には、「魔力」というもの自体が存在せぬのではないか

――そう思い至ったとき、背筋を冷たいものが伝った。

我は、独りだ。

この見知らぬ世界に、たった独り、取り残されたのだ。

さまよう夜、思い知る無力

ぎらつく色とりどりの光。すれ違う人々の早口。地を揺らして走り去る鉄の獣ども。
何もかもが異質で、何もかもが我を拒んでいるように思えた。

腹は減り、金はなく、頼る者もいない。
かつて大陸に号令をかけたこの我が、夜道でぼうっと光る、得体の知れぬ箱の明かりにすら怯む始末である。

カンカンカンカン――!

気づけば我は、遮断機をくぐり、踏切の内に立っていた。
鳴り響く警報。遠くから迫る光。

「おい、どけ! 危ねえだろうが!」「早く出ろ!」
――浴びせられる怒号の数々。

転がるように逃げ出し、駅の階段でうずくまる。

大陸を震撼させた大魔王が、たかが踏切ひとつに震え上がっている。

惨めであった。涙がこぼれそうになるのを、歯を食いしばって堪えた。

差し伸べられた手

「あんた、大丈夫かい」

しゃがれた、しかし温かい声であった。

顔を上げると、皺だらけの老婆が、黙って手を差し伸べていた。

その手に触れた刹那、脳裏に光景が閃いた。意識が途切れる直前の、配下たちの必死の形相――。

ああ、あれは。我を逃がすために放たれた、命懸けの転移の術であったのか……。

今さらその献身の重みに気づき、胸が詰まった。
あやつらは今、どうしているのだろう。問うたところで、答えてくれる者はここにはおらぬ。

行き場がないと素直に告げた我に、老婆は多くを問わなかった。

「うちに空いてる部屋があるから、おいで」

それだけであった。
連れて行かれたのが、古びた木造の「コーポ フムス」102号室。二束三文の家賃で、我はこの部屋を得ることとなった。

湯船の中で、諦めを飲み込む

その夜、老婆に勧められるまま湯に浸かった。

強張っていた体が、ゆっくりとほどけていく。
湯気の向こうの、染みの浮いた天井をぼんやりと見上げながら、我は静かに己に問うた。

魔力なきこの世界で、果たして元の世界へ帰る術などあるのだろうか。

答えは、否であった。今の我には、手立てが何ひとつない。

……よかろう。ならば今は、帰る道を探すことは諦めよう。
まずは、この世界で生き延びることだ。

湯に顔を半分沈めて、ぶくぶくと息を吐いた。

あの夜のことを、我は今でも忘れてはいない。

現代の朝、変わらぬ日常

あれから数か月。

カンカンカンカン、と踏切の音。続いてごうごうと電車の走行音。
あれほど恐ろしかったその音が、今では我の目覚ましである。

商店街のパン屋で見切り品の食パンを買う。
かつて千の魔物にかしずかれていた我が、今では100円玉を握りしめ、少しでも分厚い袋を選んでいる……。

ふっ。この暮らしにも、ずいぶんと慣れたものよ。

大家の老婆に「おはようございます」と頭を下げると、皺だらけの顔がふにゃりと笑う。
あの夜の恩を、我は片時も忘れてはいない。

積もりゆく汚れ、募る違和感

パンをかじりながら、ふと部屋を見渡す。

……待て。

これは、いつからここにあった?

畳の隅の黒ずみ。窓枠にびっしりと並んだ砂埃。台所の壁にこびりついた、得体の知れぬ染み。

「な、なんだこれはぁっ!?」

かつての居城では、我が指を一本鳴らせば、下僕どもが瞬時に隅々まで磨き上げたものだ。
埃ひとつ、我の目に触れることは許されなかった。

それが今はどうだ。誰も掃除をしてくれぬこの部屋で、汚れどもは着々と勢力を広げていた……いや、違うな。
我が、見て見ぬふりをしてきただけなのだ。

一度気になり始めると、もういけない。
すべてが我を嘲笑っているように見えてくる。

かつて大陸の覇者であった、この大魔王ソディウムを、だ。

積もる怒り、宣戦布告

――このままでよいのか。

いや、よいはずがない!

魔法も、配下も、財も失った。だが、この身に流れる誇りまで失ったわけではないのだ。

「よかろう……この部屋、我の手で必ず取り戻してみせる!」

姿なくして、我が居城を静かに、しかし着実に蝕み続ける――
紛れもない強敵である。

戦いの火蓋は、今ここに切られた。

この話のアイテム図鑑

  • 魔力

    魔力

    異世界の空気に満ちていた、目に見えぬ力の粒子。大魔王はこれを操り、術を放ち、配下を従えていた。ところがこの世界には、ひとかけらも漂っていない。望郷の術が不発に終わったのも、そのせいである。……だからこそ大魔王は、魔力に頼らず物の性質を操る「錬金術」の記憶に、のちに救われることになる。

  • 見切り品の食パン

    見切り品の食パン

    商店街のパン屋で、値引きの印を貼られて並ぶ食パン。大魔王の現代での主食である。100円玉を握りしめ、少しでも分厚い袋を選ぶのが朝の日課。かつて千の魔物にかしずかれ、宴の大皿を前にしていた頃を思えば、ずいぶんとつつましい糧だが、本人はわりと気に入っているらしい。

  • コーポ フムスの賃貸借契約書

    コーポ フムスの賃貸借契約書

    行き場のない大魔王が、大家の老婆と交わした契約の証。木造築46年、2DKの102号室。家賃は二束三文。じつはこのアパート、ここ数年ずっと大魔王のほかに住人がいない。それでも老婆は部屋を手放さず、困り果てた見知らぬ者を、多くを問わずに住まわせた。大魔王が「大家殿」と頭を下げるのは、この一枚の紙の重みを知っているからである。