掃除 大魔王 暮らしを学ぶ #002

初陣、敗れたり

宣戦布告の翌朝

夜が明けても、昨夜の誓いの熱は少しも冷めていなかった。

布団を畳み、顔を洗い、昨日の見切り品の食パンの残りをかじる。
その間も、視界の端では畳の黒ずみが、窓枠の砂埃が、壁の染みが、じっとこちらを窺っている。

……ふん。せいぜい今のうちに嗤っておれ。

大魔王ソディウムが一度口にした言葉を、反故にするなどあり得ぬのだ。

「さあ……戦の時間だ!」

商店街の100円均一なる市で、軍備を整えた。
雑巾、バケツ、そして黄色くふかふかとした、水を吸っては吐き出す奇妙な塊(「すぽんじ」、というらしい)。

しめて330円。
軍備としてはあまりに心許ないが、かつて我が軍も最初は棍棒を握ったゴブリン10匹から始まったのだ。問題ない。

……たぶん。


第一の戦線、ことごとく崩壊す

台所の壁の染み ―― 水が、効かぬ

まずは最も憎たらしい、台所の壁にこびりついた茶色い染みから攻める。

バケツに水を汲み、雑巾を浸し、渾身の力で擦る! 擦る! 擦る……!

「……な、なぜだ……!」

落ちぬ。まったく落ちぬ。
それどころか、染みは水を弾き、ぬらりと鈍く光ってさえいる。まるで我の攻撃を嘲笑うかのように。

ならばと、すぽんじを手に取る。あのふかふかの体で、敵を包み込み、絡め取ってくれよう!

ぎゅっ、ぎゅっ、と擦りつけるたび、すぽんじの黄色い体が、じわじわと茶色く染まっていく。

…………。

汚れが落ちたのではない。すぽんじが、汚れに落ちたのだ。

「す、すぽんじ……!?」

おのれ……水の刃が通らぬうえに、我が配下まで寝返らせるとは。
こやつ、まさか魔法耐性に加えて魅了の術まで持っているのか……!?

窓枠の砂埃 ―― 拭けば拭くほど、泥と化す

ならばと標的を変える。窓枠にびっしりと並んだ砂埃だ。
こちらは見るからに軟弱。一撃で葬ってくれよう。

濡れ雑巾で、ざっと一拭き。

…………。

泥になった。

砂埃が水を吸い、黒い泥となって窓枠の溝の奥へ、奥へと逃げ込んでいく。
拭けば拭くほど、汚れが溝に塗り込められていく。

我は、自らの手で、敵を要塞化させてしまったのだ……!

「ば、馬鹿な……! 増えているではないか……!」

畳の黒ずみ ―― 濡らした先に、さらなる絶望

最後の希望、畳の隅の黒ずみ。ここで負けるわけにはいかぬ。
我はバケツの水をたっぷり含ませた雑巾を、そのまま畳に押し当てて擦り上げた。

黒ずみは、薄く広がっただけであった。

しかも畳はじっとりと湿り、い草の青臭い匂いがむわりと立ち上る。
日の差さぬ東向きのこの部屋で、湿った畳がいつ乾くのか、我には見当もつかぬ。

…………。

なにやら、別の災厄を呼び込んだ気配すらする。

流しの白き塊 ―― 刃も爪も、通らぬ

せめて一勝を。我はよろよろと台所の流しへ向かった。

蛇口の根元に、白くざらついた塊がこびりついている。
前々から気にはなっていたのだ。鍋を洗うたび、そこだけ妙に白く、まるで霜が降りたように見えていた。

すぽんじ(茶色)で擦る。落ちぬ。

雑巾で擦る。落ちぬ。

ならば爪だ。かつて竜の鱗すら引き裂いた、この大魔王の爪で……!

かり、かり、かり……。

…………。

爪が欠けた。

……そうであった。魔力に満ちていたかつての爪は、もうない。
今この指先にあるのは、商店街のパン屋で100円玉をつまむのがせいぜいの、ただの人間の爪なのだ。

「ぐ、ぐおぉぉ……!」

白き塊は、何事もなかったかのようにそこに鎮座している。傷ひとつ、ついていない。
水で濡らせば一瞬だけ透けて消えたように見えるのに、乾けばまた、じわりと白く浮かび上がってくる。消えたと思えば甦る――

まるで不死の魔物ではないか。

しかも、よく見れば蛇口だけではない。流しの縁にも、水切りかごの脚にも、同じ白い跡が点々と、まるで足跡のように続いている。

…………。

こやつ、群れで動いている。


大魔王、雑巾を投げる

昼過ぎ。我は泥まみれの雑巾を握ったまま、湿った畳の上に大の字で転がっていた。

戦果、ゼロ。いや、マイナスである。

壁の染みは健在。すぽんじは茶色く寝返り、窓枠は泥の要塞と化し、畳は湿気を帯び、流しの白き塊は我が爪を砕いた。330円の軍備は、ただ汚れを広げるためだけに使われたのだ。

「……なぜだ。我は、ただ擦っただけだというのに……」

かつての居城では、下僕どもが黙々と掃除をこなしていた。

あれは、ただ擦っていただけではなかったのか?

我は彼らの仕事を、一度たりとも真面目に見たことがなかった。今更ながら、それが悔やまれる。

雑巾を、ぽいと放り投げる。べちゃり、と情けない音がした。

――大魔王ソディウム、汚れの前に初の敗北を喫す。


錬金術師の工房の記憶

ふてくされて天井の染みを眺めていると、台所の流しに置きっぱなしの小瓶が目に入った。
昨日飲み残した黒酢の水割り――大家の老婆に「体にいいから」ともらったものだ。

その酸っぱい匂いが、ふと、遠い記憶を呼び起こした。

……そうだ。魔王城の地下には、錬金術の工房があった。

我は若き日、退屈しのぎに錬金術へ没頭した時期がある。
魔力に頼らず、物質そのものの性質を操る術。

配下には「魔王様がなぜそのような地味な研究を」と首を傾げられたものだが、我はあの、物と物が出会い、変じていく様に心を奪われていたのだ。

工房の老錬金術師、グラウベルは口癖のように言っていた。

「魔王様。万物には『性質』がございます。ある性を持つものは、反する性を持つものと出会えば、互いの力を打ち消し合う。そして、四元の理をお忘れなきよう」

 ――地は重く、留まりて積もる。乾ける地は軽く散じ、濡れたる地は重く固まる也。
 ――水は低きに流れ、留まれば澱み、去りては其の跡に石を残す。石は、酸きものに遇ひて解くる也。
 ――火は万物を変ず。温もりは固まりしものを緩め、似たるは似たるに溶け、似ざるは交はらず。
 ――風は留まるものを払ふ。故に風通はざる所、澱み必ず生ず也。

「ゆえに、相手の性質を見極めずに力任せに挑むのは、愚者のすることでございます」

あの頃の我は、その言葉を聞き流していた。どうせ最後は魔法で吹き飛ばせばよい、と。

……だが、今の我には魔法がない。

「待て……待て待て待て……!」

我は跳ね起きた。

壁の染みは、水を弾いていた。ぬらりと光っていた。台所の壁……ということは、あれは長年の煮炊きで飛び散った、油ではないのか!?

油と水は似ざるもの、交わらぬもの――ならば、水でいくら擦っても落ちるはずがない!

窓枠の砂埃は、水を吸って泥になった。濡れたる地は重く固まる。グラウベルの言葉そのままではないか!

そして畳――い草は、湿気を嫌う草だと聞いた覚えがある。
そこへバケツの水をたっぷりと……水は留まれば澱み……しかもこの部屋、風がほとんど通らぬ……。

それに、あの流しの白き塊――水が去った跡に、残るもの……?
「去りては其の跡に石を残す」……まさか、あれは「石」なのか!? 道理で、爪が立たぬわけだ……!

「……我は、敵の性質を、何一つ見ていなかった……!」

そうだ。汚れは一つではない。それぞれに正体があり、性質がある。我はそのすべてに、同じ「水」と「力」だけで挑んでいたのだ。

勇者パーティーに剣だけで挑む魔物がいたら、我は真っ先に叱り飛ばしていたであろうに。

「……そうか。掃除とは、錬金術だったのだ!」

敵の正体を見極め、その性質に反する術をもって打ち消す。
力ではない。理だ。グラウベル、お主の言葉は、異世界の、この6帖の畳の上で、ようやく我に届いたぞ!

…………。

……で。

油を溶かすものは?
泥と化した砂を払うには?
湿った畳から、黴の芽を退けるには?
そして、あの不死の白き石を解くものは?

それぞれの敵の性に反するものとは、この世界では一体、何なのだ?

工房には、棚を埋め尽くすほどの薬瓶があった。
竜の胆汁、月光茸の粉、千年樹の樹液……。この世界のどこに、それらに代わるものがあるというのか。

理はわかった。だが、武器がない。


錬金術師、再起す

夕暮れ。壁の染みも、泥の要塞も、湿った畳も、流しの白き石も、何一つ変わってはいない。

だが、我は変わった。

流しの黒酢を手に取り、残りを一息に飲み干す。

……酸っぱい。

「……待て。酸っぱい、だと?」

――水は低きに流れ、留まれば澱み、去りては其の跡に石を残す。石は、酸きものに遇ひて解くる也。

酸きもの。……酸っぱいもの!

格言の中の「酸きもの」は、工房の薬棚の奥にしまわれた、仰々しい薬瓶のことだとばかり思っていた。
だが、今この手にあるのは、老婆にもらったただの黒酢だ。それでも、酸っぱい。酸の性を持っている。

我は、ゆっくりと流しの蛇口に目をやった。欠けた爪の先が、じんと疼く。

石は、酸きものに遇ひて解くる――。

であれば、この世界の台所にも、薬瓶の代わりになる何かが、案外ごろごろと転がっているのではないか……?

魔法は失った。配下もいない。
だが、グラウベルが授けてくれた理だけは、この身に残っている。魔力なきこの世界でも、物の性質は変わらぬはずだ。

「グラウベル……見ておれ。我はこの世界で、もう一度錬金術師となる」

茶色く染まったすぽんじを、そっとバケツの縁に置く。

お主の仇も、必ず取ってやるからな。

この話のアイテム図鑑

  • 工房の薬棚

    工房の薬棚

    魔王城の地下工房の壁を埋め尽くしていた薬瓶の棚。色とりどりの瓶には、物の性質を変じさせる素材がぎっしりと詰まっていた。

  • 竜の胆汁

    竜の胆汁

    工房の薬棚に並んでいた素材のひとつ。竜の体内から採れるという、深緑色の濃い液。グラウベルが錬成に用いていた。

  • 月光茸の粉

    月光茸の粉

    月明かりの下でだけ淡く光る茸を、乾かして挽いた粉。工房の弟子たちが、夜な夜な採りに出かけていたという。

  • 千年樹の樹液

    千年樹の樹液

    千年を生きた大樹から、ひと雫ずつ集めた琥珀色の樹液。とろりと重く、工房でも貴重品として扱われていた。

  • 寝返りのすぽんじ

    寝返りのすぽんじ

    100円均一なる市で手に入れた、黄色くふかふかの吸水アイテム。台所の壁の染みに挑んだところ、擦るたびに茶色く染まり、ついには敵の色に「寝返った」。大魔王いわく、裏切り者。……だが、捨てられずにバケツの縁にそっと置かれているあたり、主の情は残っているらしい。

  • グラウベルの四元の格言

    グラウベルの四元の格言

    魔王城の地下工房で、老錬金術師グラウベルが口癖のように唱えていた、地・水・火・風の理。若き日の大魔王は聞き流していたが、魔法を失った今、汚れの正体を見極める唯一の手がかりとなった。じつはこの4つの格言、部屋に巣食う4つの強敵とそれぞれ対になっている。どの格言がどの敵に効くのかは、これからの戦いで明らかになる。

  • 大家の黒酢

    大家の黒酢

    大家の老婆が「体にいいから」と分けてくれた黒酢。大魔王は水で割ってちびちび飲んでいた。流しに置きっぱなしのコップから漂ったその酸っぱい匂いが、封じられていた工房の記憶を呼び覚ます。何気ない差し入れが、反撃の糸口になった一品。