白き石と、黄金果の精
錬金術師の朝

蛇口をひねる。冷たい水が、欠けた爪の先にしみた。
……痛い。
昨日の敗北の傷である。
だが、この痛みこそが我を奮い立たせるのだ。
かつて勇者の聖剣に頬を裂かれたときも、我は笑って立ち上がった。爪の一枚や二枚、何するものぞ。
顔を拭い、そのまま流しの前に仁王立ちする。蛇口の根元では、白き石が今朝も涼しい顔で居座っていた。
「待っておれ。錬金術師ソディウムが、すぐに相手をしてやる」
返事はない。当然だ。石なのだから。……だが、言わずにはおれなかった。
見切り品の食パンをかじりながら、大家の老婆の家へ黒酢の礼を言いに行った。
「あら、もう飲んじゃったの。体にいいでしょう」
「はい。……ところで、大家殿。流しの蛇口に、白く固い塊がこびりついておるのですが、あれは一体……」
「ああ、水垢ねえ。水が乾いたあとに残るのよ。毎日使うところだから、すぐ付いちゃうの」
みずあか。
……水垢、というらしい。
水の、垢。
なんと的確な名であろうか。
グラウベルの格言そのままではないか。水が去りし跡に残る石――それがこの世界では「水垢」と呼ばれ、どうやら老婆にとっては「すぐ付く」程度の、ありふれた敵であるらしい。
ありふれている。つまり、この世界の民は日々こやつと戦っているということだ。
我が爪を砕いた不死の魔物が、ありふれている……。
この世界の民、恐るべし。
不死の白き石、水垢

黒酢の一撃 ―― 酸は、確かに在った
102号室に戻り、流しの前に仁王立ちする。
蛇口の根元に、水垢。流しの縁に、水垢。
水切りかごの脚に、水垢。
昨日と寸分違わぬ陣形で、我を待ち構えていた。
「よかろう……昨日の我とは違うぞ、水垢よ!」
石は、酸きものに遇ひて解くる也――。
我は老婆にもらった黒酢の瓶を取り出した。昨日の残りの、ほんのわずかだ。
それを布に垂らし、蛇口の根元にぐいと押し当てる。
じゅわ……とはいわなかった。
何も起こらぬ。ならば擦る! 擦る! 擦る……!
…………。
ほんの少し、ほんの少しだけ、白い縁が薄くなった……気がする。
気がするだけかもしれぬ。そして台所には、甘酸っぱく香ばしい、なんとも食欲をそそる匂いが充満した。
「……腹が減ってきた」
違う、そうではない。
力不足の酸 ―― 薬瓶の中身が、足りぬ
我は布を握りしめたまま考え込んだ。
酸の性は、確かにあったのだ。白い縁がわずかに揺らいだのが、その証だ。
理は間違っていない。足りぬのは、力だ。
思えば、これは飲むための酢である。
しかも老婆が「飲みやすいように」と薄めてくれたものだ。
工房の錬成で使っていた酸が、こんなに優しい味であったはずがない。
……いや、そもそも、あのとき工房で使っていた酸とは、何であったか。
竜の胆汁ではない。あれは苦かった。月光茸の粉でもない。あれは光っていた。
もっと……そう、もっと白くて、さらさらとした……。
思い出せそうで、思い出せぬ。
歯がゆさに、欠けた爪を噛みそうになって、慌ててやめた。
これ以上欠けたら、パン屋で100円玉がつまめぬ。
白き粉の記憶

昼。我は黒酢の補充と、新たな武器の手がかりを求めて、商店街の100円均一なる市へと向かった。
棚には、見たこともない品々が並んでいる。
「キッチン用」「お風呂用」「トイレ用」
――この世界の民は、戦場ごとに武器を使い分けているのか。用意周到にもほどがある。
その一角で、我は足を止めた。
小さな袋。中には、白い、さらさらとした粉。
そして袋の表には、鮮やかな黄色の、丸い果実の絵。
「…………」
袋を手に取る。ずしりとも、ふわりともつかぬ、懐かしい重み。
――黄金果だ。
脳裏に、魔王城の地下工房がありありと甦った。
南の大樹海にのみ実る、黄金色の酸っぱい果実。
グラウベルはそれを幾百も絞り、煮詰め、乾かし、白い結晶の粉にしていた。
「黄金果の精」と呼ばれたそれは、錬成の器にこびりついた白い澱を落とすのに、欠かせぬものであった。
あの頃の我は、ただ見ていただけであった。
弟子たちが器に精を溶いた水を張り、しばし置いてから擦ると、あれほど頑固だった白い澱が、嘘のようにほろほろと崩れていく。
「魔王様、酸の性を持つものは、石の性を持つ澱を解きます。されど、慌ててはなりませぬ。時を与えるのです」
グラウベルの声が、はっきりと聞こえた気がした。
袋をひっくり返す。裏には、細かな文字で使い方が書かれている。
そして、表の果実の絵の下に、その名が記されていた。
――クエン酸。
……クエン酸、というらしい。
この世界にも、あったのだ。黄金果の精が。それもたった110円で、こんな商店街の片隅に。
我は袋を握りしめ、その場で小さく震えた。
店員が少し距離をとった。
水垢、討伐

クエン酸の錬成 ―― 精を水に溶く
102号室。流しの前。
袋の裏の文字を、一字一字、指でなぞるように読む。
この世界の書物を読むのにもずいぶん慣れたが、今日ほど真剣に読んだことはない。
水に溶かして使う、とある。
水200mlにクエン酸小さじ1杯ほど――このくらいの割合が、目安としてよく紹介されているらしい。
濃ければ強くなるというものでもなく、まずは目安どおりに作るのがよいようだ。
空いた瓶に水を張り、白い粉をさらさらと落とす。軽く振ると、粉は音もなく水に溶け、透き通っていった。
……美しい。
工房で見た光景と、まったく同じであった。
「錬成、完了……!」
誰も見ていない台所で、我は小さく拳を握った。
湿布の陣 ―― 時を与える
ここで、グラウベルの言葉を思い出す。慌ててはならぬ。時を与えるのだ。
昨日の我は、ただ擦った。今日の我は、違う。
きっちんぺーぱーにクエン酸水をたっぷりと含ませ、蛇口の根元にぴたりと貼りつける。
水垢を、酸の精で包み込むように。乾いてしまわぬよう、上からさらに少し垂らす。
袋の裏やで読んだ指南書によれば、こうして湿布のように貼り、しばらく置いてから擦ると落ちやすいという。
置く時間は汚れの具合によって変わるようで、まずは数十分ほどから試すのがよいらしい。
我は流しの前に正座した。
…………。
待つ。
…………。
ひたすらに待つ。
かつて勇者パーティーが魔王城に攻め込んでくるのを、玉座で何日も待ち続けたことがある。
あのときに比べれば、数十分など一瞬だ。
…………。
……長い。
決戦 ―― 白き石、解くる
時は満ちた。
紙を剥がす。その下から現れた白い縁は――心なしか、ふやけているように見えた。
すぽんじ(茶色)を手に取る。昨日、壁の染みに寝返った、あのすぽんじだ。
「すぽんじよ。お主に、汚名をすすぐ機会をやろう」
蛇口の根元を、優しく擦る。力任せではない。ただ、撫でるように。
――しゃり。
小さな、しかし確かな手応え。
しゃり、しゃり、しゃり……。
白い縁が、崩れていく。ほろほろと、まるで砂の城が波にさらわれるように。
あれほど我が爪を拒み、砕いた不死の石が、すぽんじの柔らかな体の下で、音もなく解けていく。
最後に水でよく洗い流す。酸の精が残らぬよう、念入りに。
…………。
そこには、鈍く銀色に光る、本来の蛇口の姿があった。
「お、おお……おおおおおぉぉぉ……!!」
我は思わず、蛇口に頬ずりしそうになった。冷たかった。
「見たか、水垢よ! これが錬金術の力である! ふはははははは!」
隣の大家の家の窓が、からりと開く音がした。我は慌てて口を閉じた。
戦の心得 ―― 禁忌を忘れるな
勝利の余韻に浸りながらも、我は袋の裏の注意書きを改めて読み返した。
クエン酸を、塩素系の洗剤や漂白剤と混ぜてはならぬ。有毒なガスが出るおそれがある――
製品にも「まぜるな危険」と、大きく書かれている。
工房の壁にも、グラウベルの字で「交えてはならぬ物の一覧」が貼られていた。
若い弟子がそれを破り、工房の半分が吹き飛んだ日のことを、我は今も覚えている。
……あのとき笑っていた我を、今の我は全力で叱りたい。
また、素材によっては、酸で傷んだり変色したりするものもあるという。
天然の石材や、錆びやすい金属などには使わぬほうがよいとされているようだ。まずは目立たぬ場所で試す。
斥候を出してから本隊を動かす――これもまた、兵法の基本である。
そして、どうしても落ちぬほど厚く固まった水垢には、湿布を何度か繰り返したり、置く時間を延ばしたりする方法も紹介されていた。
一度で勝てぬなら、何度でも攻める。魔王城とて、一日で築かれたわけではない。
錬金術師、次なる戦場を見据える

夕暮れ。流しの縁も、水切りかごの脚も、白い足跡は一つ残らず消え失せた。
すぽんじは、まだ茶色い。だが我の目には、どこか誇らしげに見えた。
「……仇は取ったぞ、すぽんじ」
我は流しにもたれ、ゆっくりと部屋を見渡した。
壁の染みは、まだそこにいる。畳の黒ずみも、まだ湿り気を帯びて沈黙している。そして――窓枠。
昨日、我が自らの手で泥の要塞へと変えてしまった、あの窓枠。
乾いた砂は、今や溝の奥でかちかちに固まり、黒い筋となって並んでいる。
――地は重く、留まりて積もる。乾ける地は軽く散じ、濡れたる地は重く固まる也。
乾ける地は、軽く散ず。ならば、あの砂を、もう一度乾いた地に戻すことができれば……?
いや、待て。一度泥となり固まったものを、どう払えというのだ。
水をかければ泥が増え、擦れば溝に押し込まれる。昨日、身をもって知ったことだ。
……泥と化した砂を払うには、どうすればよいのだ?
答えは、まだ見えぬ。だが、我はもう知っている。
この世界の片隅には、黄金果の精がたった110円で眠っていたのだ。
ならば、泥の要塞を崩す術も、きっとどこかに転がっている。
我はクエン酸の袋を、宝物のように棚に置いた。
「待っておれ、泥の要塞よ。次は、お主の番だ」
窓の外で、京王線の踏切が、カンカンと鳴った。




