掃除 大魔王 暮らしを学ぶ #004

砂塵の城壁と、七つの影

黒き城壁

窓枠の溝に、黒い筋が7本並んでいる。

数えた。朝から3度も数えた。何度数えても7本だ。
減りもせず、増えもせず、ただ溝の底に横たわって、こちらを嗤っている。

7本。
よりにもよって、7本である。

かつて我が玉座の前には、7人の将が並んでいた。
魔王軍七魔将。一騎で一国を落とすと恐れられた、我が誇る最強の配下たちである。

謁見の日、7人は玉座の前に一列に並び、一斉に膝をついた。
7人の声が揃い、「魔王様」と我を呼ぶ。
その声が大広間に響くのを聞きながら、我は鷹揚に頷くだけでよかった。

それが今はどうだ。

我の前に並ぶのは、黒い泥の筋が7本。
膝もつかぬ。頭も垂れぬ。我の名を呼ぶこともない。

…………。

並び方だけは、妙に整っているのが腹立たしい。

あやつらは今ごろ、どうしているだろうか。
勇者パーティーとの最後の戦いで、7人は我を逃がすため、勇者の前に立ちはだかった。
その背中を、我は振り返ることもできなかった。

……ふん。感傷に浸っている場合ではない。

「よかろう。七魔将の名に懸けて、お主ら泥の七将は、我が一人残らず討ち取ってくれる」

そもそも、こやつらはどこから湧いて出たのか。

我は窓に顔を寄せ、外を睨んだ。
窓のすぐ向こうは、隣の建物とのあいだに挟まれた、土がむき出しの細い通路である。

ひゅう、と風が吹き抜けた。

舞い上がった土埃が窓ガラスにさらさらと当たり、そのいくつかが、窓と枠のわずかな隙間から溝の中へ吸い込まれていった。

……見たぞ。
敵の補給路は、ここであったか。

昨夜は雨だった。
雨粒に叩かれた地面の泥が跳ね、外側の溝のふちにまで点々と茶色い跡を残している。

風が運び、雨が跳ね上げる。
こうして少しずつ兵を送り込み、溝の底に砂を積み上げてきたのだ。築46年。いったい何年分の軍勢であろうか。

泥の筋を指先でつついてみた。

かちり。

固い。
一昨日、我が雑巾で塗り広げた泥は、乾いて溝の底にぴったりと貼りつき、もはや泥というより城壁と呼ぶほうが似合っていた。

爪を立てて引っかいてみる。

ぽろり、と小さなかけらが1つ剥がれた。

おお!

……と思ったのも一瞬であった。
かけらはころころと転がり、窓の滑車が走る細い隙間へと吸い込まれていった。

…………。

奥へ逃げた。

「おのれ……! 退却路まで用意しておったか……!」


泥の要塞、その手強さ

水は援軍にあらず

正直に言おう。我の頭に最初に浮かんだのは、またしても水であった。

固まったのなら、ふやかせばよい。
クエン酸の湿布で白き石を溶かしたように、濡らして柔らかくすれば崩れるはずだ。

――待て。

我は伸ばしかけた手を止めた。
その「濡らす」という一手こそが、この要塞を築き上げた張本人ではなかったか。

一昨日のことを思い出す。
乾いた砂埃に濡れ雑巾を当てた瞬間、砂は泥に変わり、溝の奥へと流れ込んで固まった。

水は援軍ではない。
敵に兵糧を届ける裏切り者だ。

溝という名の迷宮

ならば、乾いたまま削り落とすしかない。
そう思い、雑巾を指に巻いて溝に押し込んでみた。

……入らぬ。

正確には、入りはする。
だが溝の幅は我の指よりわずかに狭く、角まで届かぬのだ。
指の腹で撫でられるのは溝の真ん中だけで、両脇の隅には泥がしっかりと居座っている。

しかも窓枠の溝は1本ではない。
外側の窓が走る溝、内側の窓が走る溝、そのあいだの段差。
それぞれに泥が詰まり、それぞれ深さも幅も違う。

迷宮だ。
魔王城の地下迷宮も、こういう嫌らしさで勇者を苦しめたものだ。
……設計を命じたのは我である。

今、その報いを受けているのだろうか。

我、手札なし

畳の上に座り込み、我は手持ちの武器を並べてみた。

雑巾。茶色いすぽんじ。
クエン酸の袋。バケツ。

…………。

どれも泥には効かぬ。

いや、一つずつ試すまでもない。
雑巾は太すぎ、すぽんじは濡らせば泥を増やし、クエン酸はそもそも相手が違う。

グラウベルの言うとおり「性質を見極めよ」だ。
白き石が酸に溶けたのは、あれが水の残した石だったからだ。
泥は地。地には地の倒し方があるはずなのだ。

――乾ける地は軽く散じ、濡れたる地は重く固まる也。

格言はそう告げている。
だが、すでに固まってしまった地を、どうやって「乾ける地」に戻せばよいのか。
その答えだけが、どこにも書かれていなかった。


大家の庭先にて

昼過ぎ、ゴミを出しに外へ出ると、隣の豪邸の門の前で大家の老婆がしゃがみ込んでいた。

「大家殿? いかがなされた」

「あら、ソディウムさん。ちょっとね、長靴の泥を落としてるのよ」

見れば、老婆の足もとには古びた長靴が1足。
数日前の雨の日に庭いじりをしたのだという。
靴底の溝には、我の窓枠と同じ、灰色に乾いた泥がこびりついていた。

なんと。大家殿もまた、泥の軍勢と戦っておられたのか。

我は思わず身を乗り出した。
この老婆は、水垢の名を我に授けた賢者である。泥の倒し方を知っていても不思議はない。

老婆は長靴を2つ手に取ると、靴底どうしを、ぱん、ぱん、と打ち合わせた。

ぼろぼろぼろっ。

乾いた泥が、面白いほど簡単に崩れ落ちた。

「…………!」

残った細かな泥は、使い古しの歯ブラシでしゃかしゃかと掻き出していく。
溝の奥に入り込んだ泥も、細い毛先で次々と外へ掻き出されていった。

「濡れてるうちに触ると広がっちゃうでしょう。だから、しっかり乾くまで待つの。乾いちゃえば、あとは払うだけよ」

乾くまで、待つ。

――乾ける地は軽く散ず。

我の頭の中で、何かがかちりと噛み合った。

そうか。我は固まった泥を「水で戻す」ことばかり考えていた。
だが、乾いて固まった泥は、すでに「乾ける地」なのだ。
かちかちに固いから強そうに見えるだけで、その実、叩けば砕け、払えば散る。

重く固まるのは、濡れているあいだだけなのだ!

思い出したのは、遠い砂漠の行軍のことである。

我が騎竜部隊が泥沼を越えた日、竜たちの鱗の隙間は泥でびっしりと埋まった。
若い竜番は慌てて水をかけ、かえって泥を鱗の奥まで流し込み、竜を3日も不機嫌にさせた。

だが、老練の竜番だけは違った。
焚き火のそばで泥が乾き切るのを待ち、硬い毛の刷毛で鱗の流れに沿ってさっと払ったのだ。
泥は砂となって、あっけなく落ちた。

あのとき我は、竜番の手際を見ても何も思わなかった。
竜の手入れなど、配下に任せておけばよいことだったからだ。

……あの竜番に、今こそ弟子入りしたい。

「大家殿! その、細い毛の小さき刷毛は……」

「歯ブラシ? 古いのなら、まだあるわよ。持っていく?」

我は、両手でうやうやしくそれを受け取った。


泥の要塞、攻略戦

第1陣:乾かして、砕く

部屋に戻ると、我はまず窓を開け放った。

大家殿は「しっかり乾くまで待つ」と言った。
指で触れてみて、まだしっとりとした箇所があれば、そこには手を出さぬ。
乾く前に攻めれば、また一昨日の二の舞である。

かちかちに乾いた泥の筋に、歯ブラシの柄の先をそっと当てる。

こつん。

ぴしり、と城壁にひびが入った。

こつん、こつん。

ひびは広がり、泥の筋は細かなかけらに砕けていく。
固いことは、もろいことでもあったのだ。
あれほど手強く見えた城壁が、乾いた砂の粒へと還っていく。

「ふははは……! 崩れよ、崩れよ!」

第2陣:掻き出し、すくい上げる

砕いたかけらは、歯ブラシの毛先で溝の端へと掻き寄せる。

しゃかしゃか。こりこり。

指では届かなかった角にも、細い毛先はするりと入り込む。
大家殿が長靴の溝から泥を掻き出していた、あの手つきを思い出しながら動かした。

さて、掻き寄せた砂をどうするか。
指でつまめば、また隙間へ逃げられる。
我はしばし考え、菓子の空き箱を切って細い板をこしらえ、溝に差し込んでちり取りの代わりにした。

すっ。

すくえた。

……我ながら、なかなかの采配ではないか。

畳の上に新聞紙を広げ、すくった砂をそこへ集めていく。
小さな山が、1つ、2つ、3つ。
これが、我を3日間苦しめた軍勢の正体であった。

……思っていたより、ずっと少ない。

第3陣:濡らすのは、最後の最後

砂をあらかた払い終えて、ようやく雑巾の出番である。

順番を間違えてはならぬ。
砂が残ったまま濡らせば、また泥に戻る。……身をもって知っている。

固く絞った雑巾を、と思ったが、やはり溝には太すぎる。
そこで、弁当に付いてきた割り箸の先に雑巾の端を巻きつけてみた。
竜番の刷毛ほど立派ではないが、細い槍くらいにはなるであろう。

溝の隅を、すうっとなぞる。

一拭き。

…………。

黒い筋が、消えた。

もう一拭き。
銀色の溝の底が、ぼんやりと光を返した。

ああ、この窓枠は、本来こんな色をしていたのか。


陥落、そして

夕方。開け放った窓から、少し冷たい風が入ってきた。

銀色に戻った溝を、我はしばらく黙って眺めていた。

数えた。
0本。

何度数えても、0本だ。

「……泥の七将、討ち取ったり」

口に出してみると、思ったより声が小さかった。

あの7本の黒い筋は、今朝まで確かにそこに並んでいた。
膝もつかず、頭も垂れず、ただ我の前に整然と。
腹立たしい奴らであったが、思えば、この世界で我の前に並んでくれた者は、あやつらが初めてであった。

…………。

いや、泥である。
ただの泥である。情けをかける相手を間違えるでない、我よ。

泥の要塞は落ちた。
水で攻めて敗れ、乾かして勝った。白き石とはまるで逆の攻め方である。

敵が変われば兵法も変わる。
グラウベルが言いたかったのは、きっとこういうことなのだろう。

新聞紙の上の砂を丸めてゴミ袋へ入れる。
かさり、と軽い音がした。

あれほど重く固まっていた軍勢が、今はただの軽い砂である。

窓の向こうを、京王線の電車がごうっと通り過ぎていった。
いつもなら少し身構えるその音も、今日はどこか祝砲のように聞こえた。

「……大家殿には、歯ブラシの礼をせねばな」

古い歯ブラシを洗い、窓辺にそっと立てかける。
今日の戦の、殊勲の将である。

そして我は振り返った。

台所の壁。
コンロの奥に、茶色くべたついた染みが、ぬらりと鈍く光っている。

お主の正体は、もう分かっておる。長年の煮炊きで飛び散った、油だ。
水を弾き、雑巾をあざ笑い、すぽんじを寝返らせた張本人。

――油と水は似ざるもの、交わらぬもの。

水では落ちぬ。酸でも、きっと違う。
乾かしたところで、べたつきが消えるとも思えぬ。

……では、油を解くものとは、いったい何なのだ?

「首を洗って待っておれ。次は、お主だ」

壁の染みは、もちろん返事をしなかった。

この話のアイテム図鑑

  • 七魔将を呼ぶ角笛

    七魔将を呼ぶ角笛

    かつて大魔王がひと吹きすれば、魔王軍七魔将が玉座の前に馳せ参じた漆黒の角笛。7つの赤い宝玉は、7人の将それぞれの証である。今は手元になく、吹いたところで応える者もいない。

  • 泥の城壁(泥の七将)

    泥の城壁(泥の七将)

    窓枠の溝に7本並んでいた、黒く固まった泥の筋。風が運んだ土埃と、雨が跳ね上げた泥が積み上がってできたもの。かちかちに固く手強く見えるが、乾いてしまえば叩くだけで砕ける。並び方だけは、妙に整っていた。

  • 大家殿の長靴

    大家殿の長靴

    大家の老婆が庭いじりで履く、古びたゴムの長靴。靴底どうしを打ち合わせると、乾いた泥がぼろぼろと崩れ落ちる。大魔王に「乾ける地は軽く散ず」の意味を悟らせた。

  • 竜番の刷毛

    竜番の刷毛

    騎竜部隊の老練な竜番が使っていた、硬い毛の刷毛。泥が乾き切るのを待ってから、鱗の流れに沿ってさっと払う。当時の大魔王は、その手際に何の興味も示さなかった。

  • 大家殿の古き刷毛

    大家殿の古き刷毛

    大家の老婆から授かった、使い古しの小さな刷毛。細い毛先は、指の届かぬ溝の隅まで入り込む。泥の七将を討ち取った、今回の殊勲の将である。この世界では「歯ブラシ」と呼ばれているらしい。

  • 割り箸の槍

    割り箸の槍

    弁当に付いてきた割り箸の先に、雑巾の端を巻きつけたもの。大魔王が自ら考案した武器で、溝の隅をすうっとなぞれる。竜番の刷毛ほど立派ではないが、細い槍くらいにはなる。