交わらぬ者たちの盟約
じゅう、という音

じゅう。
フライパンの上で、卵が白く縁取られていく。
見切り品の卵、6個入り。
今朝の我の兵糧である。
この世界に来て、我は火の扱いだけは早々に覚えた。
つまみをひねれば、青い炎がぼっと灯る。呪文もいらぬ。
魔王城の厨房で、火の精霊を毎朝なだめすかしていた料理長が見たら、腰を抜かすであろう。
ぱちっ。
「む」
ぱちぱちっ。
油が跳ねた。
小さな粒が弧を描き、コンロの奥の壁へと飛んでいく。
ぴと。
…………。
我は菜箸を握ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
壁の、あの茶色い染み。
ぬらりと光る、油の染み。
その真ん中に、今まさに我が飛ばした油の粒が、ぴたりと張りついていた。
「……お主、まさか」
我が、育てていたのか。
毎朝、卵を焼くたびに。
毎晩、見切りの揚げ物を温め直すたびに。
我は自らの手で、敵に兵糧を送り続けていたのだ。
…………。
目玉焼きは、少し焦げた。
油という名の強敵

水を弾く鎧
焦げた目玉焼きを食べ終え、我は壁の前に立った。
正体は分かっている。油だ。
かつて水と力任せに挑み、無様に敗れた相手である。
試しに、濡らした雑巾でもう一度拭いてみる。
ぬるっ。
…………。
伸びた。
染みは落ちるどころか、雑巾の通った跡に沿って薄く広がり、てらてらと光る範囲が増えた。
雑巾のほうにも、ぬめりがべったりと移っている。
水は、油の上をすべるだけなのだ。
混ざらぬ。交わらぬ。
まるで、互いに口もきかぬ仲の悪い将軍どうしのようである。
固まりし古兵
しかも、厄介なのはそれだけではなかった。
爪の先で染みの端をなぞってみる。
新しく跳ねた粒はぬるりと柔らかい。だが、古い部分は違う。
かりっ。
固い。
茶色く変じ、壁に焼きついたように固まっている。
築46年。
この台所で、いったい何人の住人が、何千回の煮炊きをしてきたのか。
その油が層となって積み重なり、柔らかき新兵と、固まりし古兵が入り混じった軍勢を成しているのだ。
柔らかいものは伸び、固いものは剥がれぬ。
一つの敵が、二つの顔を持っている。
我、兵法を思い出す
――火は万物を変ず。温もりは固まりしものを緩め、似たるは似たるに溶け、似ざるは交はらず。
グラウベルの、火の格言である。
似ざるは、交わらぬ。
水と油のことを言っているのは分かる。
……分かったところで、どうすればよいのだ!
我は腕を組み、焦げた匂いの残る台所で、しばらく唸っていた。
商店街の定食屋

昼。
腹は減っていなかったが、我は商店街を歩いていた。考えごとをするときは、歩くに限る。
角の定食屋の前を通りかかったとき、店の裏口から、もうもうと湯気が上がっているのが見えた。
覗いてみると、白い前掛けをした店主らしき男が、大きな換気扇の羽根をたらいに沈めていた。
「……失礼。それは、何をしておられるのか」
「ん? ああ、換気扇の掃除だよ。油でギトギトになるからさ、月に1回はこうしないと」
油で、ギトギト。
我は思わず身を乗り出した。
この男もまた、油の軍勢と戦う者であったか!
「その湯は、ただの湯ではないのか?」
「お湯に台所用の洗剤を溶かしてあるんだよ。油ってのは冷えると固まるだろ? だからお湯で緩めて、洗剤で浮かせるの。水だけじゃ、なかなか落ちないからね」
店主がブラシでこすると、茶色い汚れがするすると湯に溶け出していった。
「…………!」
温もりは、固まりしものを緩め。
そして、洗剤が水と油の仲立ちをする――
脳裏に、魔王城の地下工房が甦った。
錬成の大釜にこびりついた竜の脂。
グラウベルはまず釜に湯を張って脂を緩ませ、そこへ灰から作った泡立つ液を加えて、木べらでゆっくりとかき混ぜた。
すると、水と交わらぬはずの竜の脂が、白く濁りながら湯の中へほどけていった。
「魔王様。交わらぬもの同士も、仲立ちがあれば手を結びます。戦も、錬金術も、同じでございますな」
あのとき我は、「仲立ちなど面倒だ。どちらかを滅ぼせば済む」と答えた。
…………。
今思えば、ずいぶんと乱暴な魔王であった。
「お客さん、どこか掃除でもするのかい?」
「……台所の壁に、長年の油が」
「あー、壁ならこすりすぎないほうがいいよ。洗剤液を含ませた紙をしばらく貼っておくと、浮いてきて楽に取れるって聞くね」
貼っておく。
それは――白き石を倒した、あの湿布の術ではないか!
「それでも頑固なのは、重曹とかセスキ炭酸ソーダってのを使う人もいるみたいだよ。油汚れに向いてるって言うからさ」
じゅうそう。せすき。
聞き慣れぬ名だが、どうやらこの世界には、油を討つための援軍が他にもいるらしい。覚えておこう。
我は深々と頭を下げた。
「店主殿。そなたの知恵、しかと受け取った」
店主は、少し引いた顔で「お、おう」と言った。
油の軍勢、攻略戦

第1陣:温もりの湯
部屋に戻ると、我はまず湯を沸かした。
やかんの湯を、バケツの水に注いで、手を入れられるくらいのぬるま湯にする。
熱すぎてはならぬ。
我の手は、もう魔力の鱗に守られてはおらぬのだ。
そこへ、台所用の洗剤を少しだけ垂らす。
この世界の民が流しで食器を洗う、あの泡立つ液体である。我の流しにも、大家殿にもらったものが1本あった。
まさか、これが仲立ちの秘薬であったとは。
毎日目にしていながら、我は気づいていなかった。
第2陣:柔らかき新兵を拭う
ぬるま湯の洗剤液に雑巾を浸し、固く絞る。
そして、染みの端の、まだ柔らかい部分をそっと拭った。
すっ。
…………。
伸びない。
雑巾が通ったあとに、てらてらとした光が残っていない。
雑巾を見ると、茶色い汚れがしっかりと布に移っていた。
「おお……おおお……!」
交わった。
水と油が、仲立ちを得て、ついに手を結んだのだ!
第3陣:古兵には、湿布の術
だが、固まった古い層は、さすがに一拭きでは動かなかった。
ここで力任せに擦れば、あの日の二の舞である。
我は白き石を討ったときと同じく、洗剤液を含ませた紙を、固まった染みに貼りつけた。
敵に、時を与える。
我はコンロの前の床に腰を下ろし、壁をじっと見上げた。
……待つことにかけては、我は一日の長がある。
しばらくして紙をはがし、雑巾でゆっくりと拭う。
ぬるり。
茶色い層が、ふやけたように緩み、雑巾にまとわりついて剥がれていった。
「ふははは……! 古兵といえど、温もりと仲立ちの前には無力よ!」
最終陣:残さず、拭き上げる
汚れが取れたら、仕上げである。
洗剤が壁に残っていると、かえってべたつくことがあるらしい。
きれいな水で固く絞った雑巾で拭き、最後に乾いた布でから拭きする。
から拭きの布が通ったあと。
壁は、くすんだ白に戻っていた。
火の理を得て

夕暮れ。
我は台所の壁を、しばらく黙って眺めていた。
茶色い染みは、もうない。
ぬらりとした光も、もうない。
ただ、うっすらと黄ばんだ古い壁が、静かにそこにある。
46年分の煮炊きの跡は、すべては消えぬ。だが、それでよい。この台所が、それだけ多くの民の腹を満たしてきたという証なのだから。
我はやかんに水を入れ、コンロのつまみをひねった。
ぼっ、と青い炎が灯る。
火は、万物を変ず。
温もりは固まりしものを緩め、交わらぬものも、仲立ちがあれば手を結ぶ。
「……明日は、油が跳ねぬよう、蓋をして焼くとしよう」
窓の外を、京王線の電車が通り過ぎていった。
さて。
地も、水も、火も、我は一通り学んだ。
残るは、風。
――風は留まるものを払ふ。故に風通はざる所、澱み必ず生ず也。
我は、ゆっくりと和室を振り返った。
湿り気を帯びた畳が、黒ずみを抱いたまま、じっと沈黙していた。
「待たせたな。最後は、お主だ」





