澱みの城に、風を呼べ
澱みの部屋

雨は、6日続いた。
ぽつ、ぽつ、と軒を打つ音。
しとしと、と路地を濡らす音。
ざあっ、と何もかもを塗りつぶす音。
我はこの6日間、ありとあらゆる種類の雨音を聞いた。
そして7日目の朝。
ようやく雨が上がった。
「……ふむ」
和室の真ん中に立ち、我は足の裏に神経を集中させた。
じとっ。
…………。
畳が、湿っている。
いや、正確には濡れているわけではない。
だが、素足を乗せると、ひやりとした重たい感触が、じわりと吸いついてくるのだ。
そして、その足元。
黒い。
窓際から部屋の隅にかけて、畳のあちこちに、墨を落としたような黒ずみが広がっている。
この部屋に住み始めたころから気づいてはいた。
だが、この6日間で、明らかに勢力を増していた。
台所の壁を討ち、流しを討ち、窓枠を討ち。
我が城は、ずいぶんと住みよくなった。
それなのに。
いちばん長く過ごす、この和室の足元に、最後の敵が居座っている。
「……待たせたな、と言ったのは我であったな」
我はしゃがみ込み、黒ずみを睨みつけた。
黒き沼、その手強さ

水は、敵の糧
まずは、いつもの雑巾である。
バケツに水を張り、雑巾を浸し、絞って、黒ずみをごしごしと拭く。
ごしごし。
ごしごし。
…………。
薄くは、なった。
だが、消えぬ。
しかも、拭いたあとの畳がじっとりと水を吸い、さらに色濃く見える。
足を乗せると、じとっ、どころではない。
ぐじゅ、と嫌な感触がした。
「…………」
我は、雑巾を握ったまま固まった。
この敵は、湿り気の中から生まれてきたのではないか。
だとすれば、我はいま、敵に水という兵糧を送り込んだことになる。
…………。
油の壁で、あれほど学んだはずなのに。
目に潜む影
顔を近づけて、黒ずみをよく見る。
畳の表面には、細い草を編んだ目が、びっしりと整列している。
その目の溝の一本一本に、黒いものが潜り込んでいるのだ。
爪でこすっても、取れぬ。
雑巾で上から押さえても、溝の奥までは届かぬ。
なんということだ。
こやつらは、何千、何万という塹壕に分かれて、それぞれに立てこもっている。
聞けば、畳の黒ずみには、足の脂や汚れが染みたもの、あるいは湿気から生まれる黴(かび)など、いくつかの正体があるという。
どちらにせよ、この部屋の湿り気が、敵の勢力を後押ししているのは間違いなさそうであった。
風の格言
――風は留まるものを払ふ。故に風通はざる所、澱み必ず生ず也。
グラウベルの、風の格言である。
風の通らぬ所に、澱みは生まれる。
我は、部屋を見回した。
和室の窓は、ひとつ。
その向こうは、手を伸ばせば届きそうなほど近くにある、隣の建物の壁。
台所の出窓は、そもそも開かぬ。
東向きの部屋に、朝の光がわずかに差すだけ。
空気は、6日前からずっと、この部屋の中で淀んだままだ。
「……我が城には、風の通り道がない」
我は畳の上に、どかりと腰を下ろした。
ぐじゅ。
…………。
さっき、拭いたところだった。
大家殿の風の道

昼過ぎ。
濡れた尻を乾かすついでに、我は外へ出た。
雨上がりの路地は、土の匂いがした。
京王線の電車が、遠くでがたんごとんと鳴っている。
隣の大家殿の屋敷の前を通りかかると、門が開いていた。
覗くと、屋敷の窓という窓、戸という戸が、すべて開け放たれている。
縁側では、大家殿が腰に手を当て、空を見上げていた。
「あら、ソディウムさん。やっと晴れたわねえ」
「大家殿。……なにゆえ、屋敷を開け放っておられるのか」
「風を通してるのよ。こんなに雨が続くと、家じゅう湿気ちゃうでしょう。畳も傷むし、カビも出るしね」
畳。カビ。
我は思わず縁側に詰め寄った。
「大家殿! 実は我の部屋の畳にも、黒き沼が――」
「あらあら」
大家殿は、我の話を最後まで聞くと、ふふ、と笑った。
「窓を開けるときはね、一か所だけじゃだめなのよ。風の入り口と出口を、両方作ってあげるの。そうすると、すうっと通り抜けていくのよ」
入り口と、出口。
「それに、畳を拭くなら、雑巾はかたーく絞ってね。畳は水が苦手だから。それから、畳の目に沿って拭くの。逆らうと、目に汚れが入り込んじゃうでしょう」
我は、雷に打たれたように立ち尽くした。
脳裏に甦ったのは、魔王城の、玉座の間であった。
あの広間を、我は常に閉ざしていた。
窓には重い緞帳を下ろし、扉は固く閉ざし、灯りは燭台の炎だけ。
訪れる者に、魔王の威圧を骨の髄まで味わわせるためである。
ある年の雨季明け。
玉座の背後にかけていた、魔王軍の紋章の大旗に、黒い斑点がびっしりと浮かんでいた。
我は激怒し、旗を焼き払えと命じた。
だが、グラウベルだけは首を振った。
老人は、自らの手で緞帳を一枚ずつ引き上げ、東の窓と西の窓を開け放った。
吹き抜ける風の中で、老人はこう言った。
「魔王様。閉ざした城は、内側から腐ります。風の道を一本拓くだけで、澱みは去るのです」
あのとき我は、「威厳が損なわれる」と言って、すぐに窓を閉めさせた。
…………。
あの大旗は、翌年の雨季明けにも、黒い斑点を浮かべていた。
「……大家殿」
「なあに?」
「我の部屋には、窓がひとつしかないのだ。台所の出窓は開かぬ。入り口と出口を、どう作ればよいのか」
大家殿は少し考えて、ぽんと手を打った。
「玄関を開ければいいじゃない。窓と玄関で、入り口と出口よ。それでも足りなければ、扇風機を貸してあげる。風がないなら、作ればいいのよ」
風がないなら、作ればよい。
我は深々と頭を下げた。
「大家殿。そなたは、風の将であったか」
「何言ってるの、この子は」
大家殿は、屋敷の奥から、羽根のついた白い箱を抱えて戻ってきた。
黒き沼、攻略戦

第1陣:風の道を拓く
部屋に戻ると、我はまず和室の窓を全開にした。
次に、玄関の扉を開ける。
閉じぬよう、靴を一足挟んでおいた。
そして、大家殿に借りた羽根の箱である。
せんぷうき、というらしい。
窓に背を向けるように据え、紐を差し込み、つまみを回す。
ぶうううん。
羽根が回り、風が生まれた。
「おお……おおお……!」
我は、思わず両腕を広げた。
魔力ひとつ使わず、風の精霊も呼ばずに、風が吹いている!
風は和室を抜け、台所を通り、開け放った玄関から外へと流れていく。
6日間、部屋の中にとどまっていた重たい空気が、ゆっくりと押し出されていくのがわかった。
「ふははは……! これぞ、風の道である!」
玄関の外を通りかかった近所の者が、ちらりとこちらを見て、足早に去っていった。
第2陣:目に沿って、塵を払う
風が通り始めたところで、次は畳の目に潜む塵である。
雑巾で拭く前に、まず乾いた塵を除かねばならぬ。
濡らしてから払おうとすれば、塵は泥となり、目の奥へと押し込まれてしまう。
それは、窓枠の泥との戦いで、身にしみてわかっていた。
我は、片手に収まるほどの小さなほうきを手に取り、畳の目に沿って、すっ、すっ、と掃いていった。
目に逆らわず、流れに沿って。
竜の鱗を整えていた、あの竜番の手つきを思い出しながら。
ちりとりには、思ったよりもたくさんの細かな塵が溜まった。
第3陣:かたく絞って、目に沿って
いよいよ、黒ずみとの決戦である。
バケツの水に雑巾を浸し、今度は、渾身の力で絞る。
ぎゅうううう。
かつて魔王城の城門を守っていた石の巨人が、勇者を縛り上げた鎖を、さらにきつく締め上げたときのように。
さらに、絞る。
ぎゅううううう。
雑巾の繊維が、悲鳴を上げた気がした。
もう一滴も出ぬところまで絞った雑巾で、畳の目に沿って、すうっと拭く。
すうっ。
…………。
さっきのような、ぐじゅ、という感触がない。
畳は、ほんのりと湿っただけで、すぐに風が乾かしていく。
一枚拭くごとに雑巾をすすぎ、また渾身の力で絞る。
これを、ひたすら繰り返した。
黒ずみは、すべては消えぬ。
だが、目に沿って拭くたびに、確実に薄くなっていった。
第4陣:しつこき黒には、さらなる援軍
それでも、窓際の何か所かに、しつこい黒い点が残っていた。
ここで、大家殿の言葉を思い出す。
「それでもね、カビっぽい黒いのが残るなら、消毒用のアルコールで拭くのよ。ただ、畳の色が変わることもあるから、隅っこで試してからね」
我は、流しの下にしまってあった、大家殿にもらった消毒用のアルコールを取り出した。
まずは、押入れの前の目立たぬ隅で、少しだけ試す。
色は、変わらなかった。
乾いた布にアルコールを含ませ、黒い点を、目に沿ってそっと拭う。
すっ。
つん、と鼻を突く匂い。
「……む。これは、酒精ではないか」
この世界では、アルコールと呼ぶらしい。
…………。
ここだけの話である。
我は、酒が飲めぬ。
宴の席では、我の杯にだけ、こっそりと葡萄の汁を注がせていた。
我は思わず息を止め、匂いが風に流されていくのを、じっと待った。
最終陣:乾かして、締めくくる
最後に、乾いた布で、畳全体を目に沿ってから拭きする。
そして、あとは風に任せる。
せんぷうきの羽根が回る音を聞きながら、我は台所の椅子に腰かけ、畳が乾いていくのを眺めていた。
待つことにかけては、我は一日の長がある。
……いや、この台詞、近ごろやたらと口にしている気がする。
大陸に君臨した大魔王が、いつから「待つのが得意」くらいしか取り柄のない者になったのか。
…………。
我は、黙って畳を眺め続けた。
風の理を得て

夕暮れ。
せんぷうきを止め、窓を閉め、玄関の靴をどけた。
和室の真ん中に立ち、我は足の裏に神経を集中させた。
さらり。
…………。
乾いている。
ひやりとした重たい感触は、もうない。
素足の下に、乾いた草の、かすかな香りがあった。
黒ずみは、すべては消えておらぬ。
古い畳である。長い年月の色は、そう簡単には抜けぬ。
だが、あの黒い沼は、もうどこにもなかった。
これからは、晴れた日には窓と玄関を開けよう。
風の道は、一度拓けば終わりではない。
毎日、通わせてやらねばならぬのだ。
地は、軽く散ず。
水は、酸きものに遇ひて解く。
火は、温もりと仲立ちで固まりしものをほどく。
そして、風は、留まるものを払う。
グラウベルよ。
そなたの四つの格言、我はすべてこの手で確かめたぞ。
……もっと早く、聞いておくべきであった。
我は、止まったせんぷうきの前に膝をついた。
「……そなたも、大儀であった」
魔力も持たぬ羽根の箱が、一日じゅう休まず風を送り続けてくれたのだ。
我が軍の将であれば、勲章のひとつも授けているところである。
借りていたせんぷうきを抱え、大家殿の屋敷へ返しに行く。
……重い。
両腕で抱えると、ずしりと腕に食い込んでくる。
しかも形が妙に不格好で、どこを持っても収まりが悪い。
「大家殿、恩に着る。我が城に、ついに風が通った」
「よかったわねえ。それ、しばらく持ってていいわよ。うちには、もう一台あるから」
…………。
我は、せんぷうきを抱え直し、来た道をとぼとぼと戻った。
途中で2度持ち替えた。





